2022/11/30
1993年に沖縄に来る前
私は大阪で営業職のサラリーマンをやっていました
筋トレにはまって6年目くらいの時です
仕事は生きていくためのもの
筋トレは自分の可能性を追求していくものとして最優先のものでした
仕事で楽をしたいという思考ではなく
仕事はサクサクとこなして残業せずにジムに行く
そういう毎日を続けていました
仕事は「Chacott」という会社でクラシックバレエからはじまり
私が入った当時はオンワード樫山グループの傘下になって
社交ダンスウエアや水着、婦人服、スポーツウエアと幅広く展開していました
1990年にグループ傘下となってどんどん忙しくなってきた時期だと思います
仕事は生活のためなので最優先すべきですが
そのころの私は
経済学者の熊沢誠さんが言うように、日本の企業では「生活態度としての能力」が求められていました。
1990年代のことです。「生活態度としての能力」とは、自分の生活のすべてを仕事に注ぎ込める能力を意味します。
これを基準にすると、残業や休日出勤に対応できる社員は「能力が高い」
そして会社の要求よりも自分の都合を優先する社員は「能力が低い」と評価されることになるということです。
しかし私はどうしてもボディビルの筋肉を造り可能性を試してみたかったのであきらめきれなかったんですね
それでトレーニングを最優先させたかった
自分の都合を優先する仕事能力の低い人間です。
だから私のことを知る人がいない沖縄に来ました
周りを気にしなくていいので都合がよかったんです
沖縄はお金がなくても非常に過ごしやすい場所です
人も環境も優しい
何とか生きていければトレーニングはやりやすかったのです
しかし今思えばその頃はボディビルや筋肉を造ること自体がポピュラーなものではなかったので、自分自身の世界に閉じこもり周りの環境をシャットダウンしながらトレーニングと決められた時間の食事だけをとるような生活が結構長い期間(10年以上)続いていました
おそらく下手をすれば時間に流されていつの間にかモチベーションが下がっていく可能性もあったでしょう
私は大阪で育ったせいで競争が激しい中でやってきたので油断することなく常に上を目指していました
周りにはまだまだ上の選手がたくさんいたからです。
いつまでも下にいるのは嫌だなと
そのイメージが沖縄にいても常に頭の中に入っているので
上昇志向を持ち続けることができたのです
上昇志向とはより高い地位やより良いものを目指す心の持ち方や姿勢のことを言い、私にとっては競技者として上のタイトルを目指すことになります。
環境は恐ろしいと思います、慣れても来るし、周りも見えなくなる
お互いけん制しあったり、監視する人もいなければ
気楽で自由にできる反面、甘えようとすればいくらでも甘えられます
仕事も同じような気がします
一つのことを納得するまでやってそこそこ満足できる領域に来たらそこで味を占めます
おいしいものを知ってしまうとまずいものは食べたくないのと同じように
だからほかのことをしてもがんばって少しでも上を見たくなります
私は職人肌なのでどちらかというとおいしいものを作りたいので
時間と労力は惜しみません(料理は苦手ですが)
なぜなら私が欲しい結果を得るためには必要な過程だと知っているからです
そんな素晴らしい世界を知るために
日々全力で取り組めなくても自分自身の上を目指してチャレンジし続けたいですね。
今では競技が最優先ではないので上昇志向というより向上心を持って臨むようになりました。
向上心「自らの成長のために現状に満足せずより高いものを目指す」
この気持ちで私の相手は自分自身になったんですね
2022/11/25
自分が競技者であるとどこまでも上を目指したくなります
そこは知らない場所なので
行けると思ったり、いけないと思ったり、とりあえず進んでみるかと思ったりします
ある程度競技レベルが上がって、そこそこ行き着くと(自分なりにですが)
気づくことがありました
それは適当に取り組んだり
適当に頑張ったり
中途半端な気持ちでやるよりも
徹底的にやれることをやったほうが格段に面白いということです
その分プレッシャーやしんどさ、きつさなどを伴いますが
その見返りがとても大きいように感じます
自分の潜在能力を引き出すことの喜び
競技についていろんなことを知り
いろんなことを感じ取ることができます
私は小学校でサッカーに出会い
高校で空手に出会い
大学でボディビルに出会いました
一番強烈な出会いが
ボディビルという競技でした
この出会いは恋をして付きまとうストーカー以上のものです
周りが何も見えない(笑)
でもそのころが一番楽しかったのです
欲しいものがそこにしかない
筋肉(笑)
18年かけて自分なりの目標を達成し
その後も恋人ではなく仲のいい友達として付き合っています
そしてある年齢に達した時に別のことを考えるようになりました
ボディビルをやってきてパワーリフティングと出会い、その間アームレスリングやストロングマンに挑戦したりミリタリートレーニングに挑戦したりと
しかし何一つ極めていないことに気づいたんです
世界チャンピオンになったわけでもなく
どこにいても上には上がいて
自分はこの程度かと思うこともありました
いつの間にかえらいおっさんになってしもうて(57歳)
もう後戻りはできないのです
小学生から壊してる肘や(変形性肘関節症と神経圧迫のしびれ)
膝の半月板損傷など
この状態でまあそこそこやったなと思うこともあります
しかし生きている間はまだ先があります
何かを極めたい
極める・究めるを辞書で調べてみると
極めるとはこれより先はないというところまで行きつく、頂点、極点に達した状態になるという意味があります
もう一つの究めるには深く研究して明らかにするという意味があります
肘の痛みでボディビルを断念し
膝の痛みでパワーリフティングを断念し
10年以上経てパワーリフティングとフィジークという形で
復帰しました
どれも今までやってきたことを活かして、取り入れて
筋肉をそして筋力をつくり上げてきました
それぞれの良さをとりいれていく
いろんな食材をミキサーで混ぜて今までにない味を出すような
これこそが自分の戦い方だと思っています
今までの経験と知識を取り入れて自分なりの新しい形を生み出す
一つの競技を極めることができなくても
自分を極めたいということにたどり着きました
他人が何を言おうと
自分にしかできないこと、自分だからできることがあります
1年ほど前ジャパンクラシックパワーリフティング(マスターズ)の1か月ほど前に半月板が半分潰れました
今はまだ次の大会にはチャレンジできないですが
痛みが取れてきて膝のリハビリと趣味を兼ねて
ダンストレーニングをはじめました
今は6種類のダンスを習い(タンゴ、ワルツ、フォックストロット、ルンバ、サンバ、チャチャチャ)
これと筋肉の融合を考えています
2023年も新しいチャレンジをしたいです
ちょっとした勇気とチャレンジ精神があれば何か道は開けると私は常に信じています
2022/11/05
「勘」という言葉は時々使われるが
日本大百科全書の解説によると
「勘」というのは直感的に事柄を感知したり、判断したり、行動したり
する心の働きを指す。
通常の視覚・聴覚・触覚などの五感を超えた能力とみられるときには第六感ともいわれる
「勘」はかならずしも長期の経験を前提とするのではなく、勘がいい人・悪い人などといわれるように、生得的な個人差のある潜在的能力にも用いられる。
とある。
これとは反対の意味として固着、硬さなどの抑制作用があげられる。ある事態で効果をもった機能が固定化し、新しい事態(問題場面)に適切に効果をもつ機能を妨害するのが「固着」であり、また、つねに一つの態度に固執し、融通な態度をとりえないのは性格の「硬さ」といわれる。
私と同世代または私より年長の人の中には考え方が固執してしまっている人たちも多くみられ「頭が固い」といわれている
私自身もそうならないように気を付けてはいるのだが第三者に確認しないと
「私は頭が固くない」と言い切る自信はないですね。
「勘に頼る」という話に戻ると
私の身近に尊敬する方が二人いてどちらも70歳オーバーでバリバリ元気
そしてもちろんトレーニングもしていて健康そのものといった感じの方がいます
この二人は食事の考え方も対照的で
一人は自然派志向で腸内環境をいつも意識し、加工品もとらず
野草や自家製の酵素、梅のエキスなどをとり
筋力トレーニングやヨガで心身のバランスをとることを日常としています。
もう一人は肉が好きで外食が多く、ラーメンなども好んで食べている方です
この方は私のお客さんでありパーソナルトレーニングをしているときに
年齢に応じた健康とか、どんな時に年齢を感じるかという話になり
私としても未知のゾーンの話で興味がありました
その方曰く普段の食事はカロリー(エネルギー)として好きなものを食べ
あとはサプリメントでビタミンやミネラル、アミノ酸を補って栄養を確保しているというのです
私はどちらかというと自然派よりの食生活がメインなのでサプリメントも以前選手だった時に比べると全然とってなくてプロテインくらいなものですからその話に興味を覚えました
なぜならその方は医師でもあり実業家でもあり常に健康をチェックして何ら問題もなく血管はプラークもほとんどなく健康そのものでいまだに筋力も伸びているからです
この時に私が考えたのは個人的な環境や体質の違いはあるかもしれないが
人間それぞれがもともと持っているものもあり
リスクになるものは減らし、病気になる確率を減らすべきではあるがどうしようもない事実が存在して、それがうまく自分の人生の選択に当てはまるとスムーズに事が進んでいるような気になってきました
ヘビースモーカーの人でも肺がんにならない人もいるし、健康にとても気を遣っているのに病気になる人もいます
結果的にどうだったかで判断するしかないのです
好き放題食べて、不健康なことをしても100歳まで生きた人がいて、その人がもっと健康的な食べ方をしたら110歳まで生きたのに、ということはできないのです
なぜならその人が選んだ道、生き方だからです
一番確かな選択は自分の身体に聞いてみることです
食べ物を選んで食べた後の感覚、それを数週間続けてみた時の感覚
世の中は情報があふれているので、それが間違った情報でなくても自分に合うかもしれないし合わないかもしれない
なんとなくこれがよさそうだとか何となくこれは悪そうだとかは勘で判断するしかないのです
ただ多くの食品、とりかた、量を試してみないと情報を自分にインプットできません
それも吟味して取り込まないといけません。何気なくではいい情報がインプットできていないので「勘」も外れやすくなるような気がします
こんな風に言うと情報をもとにロジカルシンキング(論理的思考)で行っているように聞こえますが
私の場合は頭ではなく身体が感じているのです、だから説明しずらい
頭と身体はリンクしているので何らかの今までの経験値などが影響しているのかもしれません、だから直感的になるのだと思います。
この方法がいいか悪いかは結果としてどうだったかにもよりますが
私なりの結論として情報や人からの話をうのみにして何も考えず行っていることは自分の進化の妨げになるような気がします。